玄忠寺について


玄忠寺(岡山県笠岡市)寺院紹介


略縁起


玄忠寺は、文亀年間(1501年~1504年)に忠円僧によって設立され、永正元年(1504年)に玄譽徹公によって正式に開山された浄土宗の寺院です。この寺号は、両名の諱(いみな)に由来しています。福山藩の水野家の庇護を受け、備中国の浄土宗寺院の触頭として重要な役割を果たしました。


歴史と寺格


玄忠寺はかつて浄土宗内で中本山としての地位を持ち、浄土宗三備中国内の筆頭寺院としても知られていました。浄土宗の中心的な寺院として、地域における宗教活動の拠点となっていました。


徳川家との関係


玄忠寺は、徳川家歴代の位牌を賜った寺院であり、特に福山藩の水野家(徳川家康の従兄弟にあたる)の庇護を受けて徳川家との深い関係を築きました。この位牌の授与により、寺の格がさらに高まり、追善供養の場としても重要な役割を担いました。


正五九の法要


玄忠寺では、かつて大本山増上寺と同様に「正五九(しょうごく)」の法要が毎年行われていました。これは徳川家光公の命日に基づく追善供養で、正月の5日と9日に行われていました。この重要な法要が、当寺でも水野家の庇護のもとで行われていたことが、石碑に記録として残されています。


知恩院との関係


玄忠寺は、浄土宗の総本山である知恩院とも深い関わりを持っていました。知恩院の日誌には、玄忠寺が倉敷誓願寺や総社清雲寺などと共に拝謁に参加した記録が残されており、浄土宗内での重要な役割を示す証拠となっています。また、知恩院の住職が華頂宮家の法親王を務めていたことから、玄忠寺は華頂宮家の位牌も賜り、この授与によりさらに寺格が高まりました。これにより、玄忠寺は菊の御紋や特別な待遇を受けています。


本尊光背の由来と歴史


玄忠寺の本尊光背は、大本山善導寺第46世住持の供養のために制作されました。天明8年(1788年)に遣蓮社迎譽上人と本蓮社形譽上人の発願により募金が開始され、仏師・善吉によって作成されました。寛政4年(1792年)に知恩院第60世、誠譽定説大僧正によって開眼供養が行われました。この光背は、浄土宗の大僧正たちの寄進によって成り立ち、信仰の対象として本尊を一層荘厳にしています。


まとめ


玄忠寺は、かつて浄土宗内で備中国における筆頭寺院として地域の中心的存在でありました。福山藩水野家の庇護を受け、徳川家歴代の位牌を賜り、格式の高い寺院としての地位を築いてきました。知恩院との深い関係や、華頂宮家から賜った位牌を通じて、玄忠寺は特別な寺紋「華頂菊」と「五七桐」を持ち、その格式を誇っています。


名称:大巖山 壽正院 玄忠寺(だいがんざん じゅしょういん げんちゅうじ)

宗派:浄土宗 知恩院末寺

ご本尊:阿弥陀如来

寺紋:華頂菊、五七桐

住所:岡山県笠岡市笠岡2785

堂宇:表門・山門・旧鐘楼堂・地蔵堂・庫裏・鎮守熊野大権現


その他、社会貢献活動として

社会福祉法人 摩耶会(まやこども園・笠岡認定こども園、学童保育等)